Who’s Helping Whom?

今日は、カンボジアの新年なんだよ。とルームメイトは突然、言った。
部屋の壁に貼られている、アンコールワットが中心に描かれている国旗を背にして彼女は、ベッドに寄っ掛かり、大学付近に住むカンボジア人の家族のお宅に招待された、と話す。

いつも通り、貴亜も来なよと誘われ、行ってもいいのかなと渋っていたら

Everyone invited are welcomed.

You are invited by me now.

Thus, you’re welcomed.

招待された人はみんな歓迎。そんで、今、私は招待したよ。よって、きなはれ。

AはB, BはC よって A はCといった論法をよく披露する彼女の、正しいのか正当化なのかよくわからない言葉に背中を押されて、迎えに来てくれたカンボジア人のご家族の車に乗り込んだ。

綺麗な顔立ちに、マシンガントークのおばちゃんが運転席で待っていて、「そういえば、私も・・」なんて話に入り込もうとしても、彼女は、全く気にすることなく自分の話や他人の噂話を続け、プロビデンスの街をぶんぶんと陽気に飛ばしていく。

しかし、彼女のパワフルさは序の口。

家に着き、わんさか集まる人たちの間で交わされていたのは会話のキャッチボールというより、ドッヂボールだった。食卓の上で、次々と話題が、恐ろしいスピードで行き交う。
私たちは難民としてカンボジアから来て、血は繋がっていないけれど、この家に住んでいる。という話をしていたかと思いきや、別の誰かが k-pop の話を被せてきて、なぜか専攻の話になる。

話題を投げかけた人に顔を向けようと、頭を右に、左に、時には後ろに振り、いつの間にか台所には10人以上の人が集まっていた。よく言えば賑やかで、悪く言えば騒がしい。あふれんばかりのエネルギーに、ただただ私は目を見張っていた。

ルームメイトは、こんなところで育って、よく、落ち着いて話を聞けるような人間になったなぁ。

と、ちらりと彼女を横目で見て、感心した。

「こんなところ」

自分の、ちょっとした感情にひっかかりながら。

食卓に並んだ、葉っぱに包んだねっとりご飯、餃子、海老のスープ、マンゴー、パイナップル。今まで見たことのない食べ物を、「なにこれ!」と私は指差し、ルームメイトは一つ一つ丁寧に説明する。

あ、と思う。

いつもと立場が逆だな、と。


ルームメイトは、私が経験してきた多くのことを、知らない。

エクレアを見て、「なにこれ」と。

味噌汁を見て、「なにこれ」と。

彼女が「なにこれ」と不思議そうに尋ねる都度、

なんでこんなことも知らないんだろう。

あーいろんなものを食べさせてあげたい、という気持ちになる。

でも。

だがしかし。

 

カンボジア人が集まる食卓で、初めて食べるねっとりご飯の美味しさに舌を巻きながら気づいてしまう。

彼女はただ、違う経験をしていた。

  

ジャックフルーツ を初めて見て「なんじゃこりゃー!」となった私と同じである。

何かを「食べさせてあげよう」、「してあげよう」なんて気持ち、

言い換えるなら

1.相手は何々をもっていない/経験したことがない

2.もっていれば、もっと幸せになるだろうに。

3.幸せになってもらうために「してあげよう」

といった思考回路で、

ブックスタンドを使わずに、乱雑した教科書をみて、東京バナ奈の小包装に感心する彼女をみて、いつだって私は彼女を彼女してではなく、こんなのを味わったことがない/知らない、かわいそうなカンボジアの人として、どこかで思っているのかもしれない。

そもそも、「かわいそうなカンボジア人」の概念すら、勝手に頭で作り上げているだけだけど。

だから、日本のお土産を渡して「ふーん普通だね」と言われると、え、あげたのにその反応かいな、とがっかりしてしまう。


視野を広げさせてあげたい。

美味しいものを食べさせてあげたい。

 

純粋なはずの気持ちは、ただ自分の定規で他人の幸せを測っているだけなのかもしれない。

私は、彼女の知らないことを知っていて。彼女は、私の知らないことを知っている。

ただそれだけの話。ただ違う、というだけの話。
そこに、上下関係は存在するべきではない。

「助ける側」と「助けられる側」

おばちゃんが家を出る寸前に、容器に詰め込んでくれた大量の餃子とマンゴー4個から伝わって来る重みを感じながら、いま自分が手に持っているのは何なのだろうと考える。

たらふく食べた帰り道。二人で夜の道を歩いた。

——

さて一体何が言いたいのかというと、気軽に正義感を持ってボランティアに行くんじゃないよとかではないし、つらつらとこんなことを書いているより、君は何をしているんだよって話だし、何より大切なのは、誰かが他の誰かのことを想って行動している、ということなんだろうけど。

「してあげよう」と思った瞬間、いろいろと考える必要があるのかな。と思います。

相手が本当に求めているのはなんだろう、とか。

「発展途上国」だとか「被災地」だとか、

そういったフィルターを通して見ているのかもしれない、とか。

Who’s helping whom?

誰が、誰を助けているのか。

そこに不必要な上下関係が生まれないように。

おまけ:

Let’s save Africa – Gone wrong (英字幕付き)

ノルウェーの方が作ったということで、

もう一層皮肉が追加されているような気がするけれども。